ささいなしあわせ
「あなたは死ぬ前に愛したことを思い出すか 愛されたことを思い出すか」
辻仁成さんの『サヨナライツカ』という本に書かれている詩らしい。
凄く考えさせられる言葉だな、と思ったから僕の思いをまとめたい。
1.愛されて育った
虚弱体質
この言葉を聞いたときに真っ先に感じたのは自分に与えられた“愛”について。
僕は生まれつき虚弱体質だったこともあって、すごく手のかかる子だった。
ただでさえ手のかかる幼児の中で、より大変だったろうと思う。
与えられた愛
その分たくさん時間とお金と愛をかけて大切に大切に育ててもらったことを今になって実感していて、
「あなたは死ぬ前に愛したことを思い出すか 愛されたことを思い出すか」
この言葉を聞いたときに自分がどれだけ愛されて育ったかを改めて実感した。
2.愛したことを思い出す母
谷の深さ
僕の母も病気を経験している。それもすっごく重い病気。
経験した底の深さの分、人としての深さも出ると思っているんだけど、
僕も母も十分すぎるくらいの谷を知っている。
ささいな幸せ
母は病気をしてから、空に感謝し、日常に感謝したという。
首を上げれば綺麗な空が広がっていること、その空を見ることが出来ること。
家で洗濯ができること、大好きな家族に向けて料理を振る舞えること、おかえりと迎え入れられること。
そんなささいな幸せに気付き、感謝するようになったと言っていた。
愛せるということ
そんな母は“愛したこと”を思い出すだろう。
母がかかった病気はとても稀で、5年後の生存率ゼロと診断された。
そんな母が病気に打ち勝ち、10年経った今も元気でいるのは間違いなく“愛の人”だったから。
病気が発覚した時、僕は修学旅行を間近に控えた中学3年生。
母は僕の修学旅行の事、高校卒業まで送り届けられるかなど、自分の事はさておき僕の事、子どもの事しか考えていなかったという。
そんな母に愛され、僕はここまで生きてきた。
母は“愛したこと”を思い出す。
3.愛されたことを思い出す自分
一方、現状の僕は“愛されたこと”を思い出す。
「あなたは死ぬ前に愛したことを思い出すか 愛されたことを思い出すか」
この質問には答えがないし、どっちの方が美しいという基準もない。
ただ、人間が変化し適応し生きていく生物ということを考えると
このことを語るうえで“現状”という視点が大事な気がする。
現状の僕は、愛されたことを思い出す。
4.愛する存在が出来た時
今後、愛する存在が出来た時。
愛する存在のパートナーとの間に新たな生命が宿る時。
そんな経験を経て人は“愛された記憶”から“愛した記憶”に塗り替わっていくのかもしれない。
「人は自分がされた優しさでしか優しくできない」という言葉を聞いたことがある。
「人は自分が与えられた愛を別の何かに与えて終わりを迎える」んじゃないだろうか。
その愛の連鎖、プラスのサイクルを途絶えさせてはいけない気がする。
焦る必要も
無理に探す必要もないけれど、
いつか愛する存在が出来た時、
その時は
与えられた愛を感じながら今度は自分が大きな愛を与えられる存在になれたらな、
とそう感じさせてくれる言葉だった。